オステオパシーの源流は日本?(5)二宮彦可と正骨範その3

 

では前回、この人はA・T・スティルの前世ではないかと書いた、江戸時代の

整骨医である、二宮彦可(にのみや げんか)の来歴についてです。

二宮彦可は宝暦四年(1754年)に遠州浜松在叟楽村(現在の静岡県浜松市)

 

岡崎藩(現在の愛知県東部)の瘍医(現在の外科医)である小篠敏の長男と

 

して生まれました。(恐らく母親の実家が遠州のため、浜松で産まれたと思われ

 

ます。)

小篠敏の長男として生まれた彦可ですが、乳児期に乳母の梅毒に感染してしまい

梅毒性ゴム腫により鼻が欠けた容貌となり、父母は彦可が廃人となるものと考え

小篠家を継がせるために、門人の加美紀を養子として迎えます。

しかし、これを不憫に思った藩士の志波某が藩の有志を動かし、彦可を同藩の

口中科(現在の歯科)二宮家の養子とすることになります。  

二宮家を継いだ彦可は、二宮家の専門である口中科から始まり、内科、外科、

眼科、産科など、寝食を忘れるほどの猛烈な勉強で次々と各科を修めていき

 

ます。

以下に二宮彦可の家系図と学系図を載せます。

 

 

 

 

 

家系図の下部にある彦可の曾孫にあたる二宮金次郎氏については「昭和の初期

 

まで東京浅草千束町において、薬種商を営んでいたが、戦災後の行方は不明で

 

ある。」と書かれていました。(

彦可は、和、漢、蘭と多様な医学を学びますが、最終的に九州の長崎に住む

 

整骨医、吉原杏隠斎のもとで徒手整復法を極める道を選びます。

吉原杏隠斎はもともと武士でしたが、自らが学んだ拳法の死活の法を拡充して、

独自の手法を確立します。

彦可は吉原杏隠斎の技を全て学んだ後、岡崎藩主が浜田藩(現在の島根県浜田

 

市)へと転籍になっていたため、浜田藩で3年ほど藩医を務め、寛政5年(17

 

93年)、藩主に随行して江戸に移り、江戸木挽町5丁目に居を構えます。

その後、杏隠斎の技を更に工夫、改良して文化四年(1807年)に「正骨範」

(上、下)を著します。

前回、スティルは彦可の生まれ変わりではないかと書きましたが、来歴も両者は

酷似していることがわかります。

スティルも、もともとは西洋医学の医師でしたが、最終的には薬などに頼る西洋

 

医学を捨てて、徒手療法のオステオパシーを自ら考案します。

彦可も和、漢、蘭などの医学を一通り学んだ後、最終的に薬などを使用しない、

 

徒手療法を選びます。

違いといえば彦可には吉原杏隠斎という師匠がいましたが、スティルには師匠と

呼べるような存在がいなかったことです。

彦可の整骨術の効果は絶大で、当時の江戸幕府の幕府医であった桂川家、栗崎家

 

人々も彦可の門に入るほどの名声を得て、その後も多くの門弟を育てました。

文政十年十月十一日(1827年)、乳児期に梅毒に罹ったにもかかわらず、

 

74歳という当時としてはかなりの長命を得てその生涯を江戸で閉じ、浅草永住

 

町長遠寺に葬られました。(この翌年に、スティルが生まれています。)

彦可には多くの門弟がいましたが、その技はどこかの時点で途絶えてしまい、

 

現在は「正骨範」という本の形でしか、その技は残っていません。

この点でも、スティルの技や考え方が途絶えてしまい、彼の数冊の本としてしか

 

残っていない、現在のオステオパシーの状況と酷似しています。(私はスティル

 

のテクニックを復活させたと言われているヴァン・バスカークDOの手法は、

 

その表層をほんのわずかばかり撫でた程度のものでしかないと思っています

 

ので。・・・またまた爆弾発言ですが・・・ )

とりあえず、これで「オステオパシーの源流は日本?」のシリーズを、終わりた

 

いと思います。




参考文献: 

  「 正骨範 」 二宮彦可著 1807年

  「 医譚 『二宮彦可小伝』 」 蒲原宏、中山沃 1957年





では最後に「正骨範」から、図をいくつか紹介します。

 

 

 

 

            熊顧母法    

 

 

 

 

            車転子法第六

 

 

 

           熊顧子法第三

 

 

 

 

            円旋母法