礼と返礼の法則

 

私の尊敬する偉大なオステオパス、故ロバート・フルフォードDOの


唯一の著書「いのちの輝き」は、オステオパシーに関することだけでなく


フルフォード先生の、自身の経験にもとづいた言葉が平易な文章で


語られています。


その一部を紹介します。



「相手に対してしたことは、最終的にその人に戻ってくる。


 好むと好まざるとにかかわらず、われわれの心は他者の心と


 つながっているのだ。


 自分だけは何にも依存することなく、すべて自分の思い通りに


 やれると信じている人がいるかもしれない。


 だが実は、われわれはみんな同じひとつの生命力を分かち合って


 いるものであり、誰かに与え、また与え返すことによって


 われわれは自分の生命力の成長を助けているのである。」




知っている方も多いかもしれませんが、この「礼と返礼の法則」の


国家レベルでの具体例を、一つ紹介したいと思います。


イラン・イラク戦争の際、イラクのサダム・フセイン大統領は


「1985年3月19日20時半以降はイランの上空を飛ぶ


すべての飛行機を撃ち落とす」という声明を発表しました。


他の国の人達は自国の飛行機で次々に脱出しましたが、日本政府の


対応の遅さから200名以上の日本人は、脱出することができず


イラン国内に取り残されてしまいました。


それを知ったトルコ政府はトルコ航空機をテヘランへ飛ばし、


タイムリミットぎりぎりで215名の日本人を無事イラン国外へ


脱出させることに成功しました。




トルコ政府が、自国の飛行機が撃ち落とされる危険もかえりみず


日本人を救出するためにイランへと向かった理由は、1890年


までさかのぼります。



「エルトゥールル号遭難事故」


1890年オスマン帝国最初の親善訪日使節団がエルトゥールル号で


日本にやってきました。


しかし、エルトゥールル号は帰途に紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁で


座礁し、587名が死亡または行方不明となる大惨事となりました。


灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、


総出で救助と生存者の介抱に当たり、この時、台風により出漁できず


食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、


卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に


生存者たちの救護に努めました。


その結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名の命が救われ


たのです。


その後遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は


一旦東京に送られ、遭難事故の20日後の10月5日に東京の品川湾


から出航した日本海軍の「比叡」と「金剛」により、翌年の1891年


1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールに送り届けられました。

 

(ウィキペディアより一部抜粋)

 



この100年近く前の出来事を、トルコ政府は忘れずにいて


イラン・イラク戦争の際のトルコ航空機による日本人救出につながった


のです。




フルフォード先生は先ほどの文章のあとに、次のようなことも


書いています。



「与えることの少なかった人は、よく与えた人よりも齢をとってから


 痛みやうずきに悩まされることが多いようだ。


 否定的な行動がからだの複雑な生理作用に、悪影響をおよぼすからだ。


 ようするに、宇宙の法則に反したおこないからは逃げられないと


 いうことだ。


 今は逃げられると思っている人にも、いつかは体のほうが正直だった


 ことを思い知らされるときがくる。」
 





90歳を過ぎても、現役で治療を続けていた医師の言葉には


説得力があります。